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亀岡市・余部城跡(丸岡城跡)攻城レポ日記

亀岡市にある余部城跡(別称・丸岡城跡)を攻めてきました。

・・・といっても亀岡市内の住宅街のど真ん中にある城跡ですが。

余部城跡のある西岸寺。右手の高台にあるのが西岸寺で、かつての余部城の本丸にあたり、寺伝では天守があったとか。西岸寺に至る坂の登り口あたりに大手門があったそうですが・・・

天守と大手の位置が近すぎないでしょうか。

天主の存在自体は後述する「桑下漫録」「亀山由来記」に記述があり、実際に存在していたことは確かなようです。

西岸寺の門と「史蹟 丸岡城跡」と刻まれた大きな石碑。

史跡指定はされてませんが、ここに余部城があったことを物語ってます。

余部城跡の説明板。説明板にある通り今でも一帯には「古城」「政所」「古城浦」の地名が残されています。

日本城郭大系に乗せられている余部城跡の縄張概略図。

この概略図を基に現在の地図で大体の範囲を書いてみました。

かつては保津団地側や南の低地に天然の堀となる小川が流れていたようです。

現在は余部城跡の遺構は全く残されておらず、「京都府中世城館調査報告書」に記載のある唯一残っているという西側の「下条」にある堀切跡も現在は新たに造られた住宅街によって消滅したようです。

余部城跡本丸側から大手口を望む。

南側の低地から余部城跡を望む。

現在はこのように余部城跡一帯が周りの地形より高くなっており、丘城だった様子を伝えているのみです。

しかし、余部城は「丹陽軍記」「桑下漫録」「亀山由来記」などの古記録や野田泰忠・波多野元秀・明智光秀の書状といった古文書にも記載が見られるなど地方の中世城郭にしては豊富な文献資料が残されておりかつての余部城の様子をうかがい知ることができます。

日本城郭大系の記述を引用しますと、築城年は不明ですが応仁・文明の乱の頃、野田泰忠という人物が城主を務め、東軍の拠点としていたと古文書にあります。

戦国時代の初期の天文年間には中沢因幡守正綱が城主を務めていたと古文書にあります。

戦国時代の天正年間、没落した中沢因幡守に代わって丹波八上城主波多野氏の配下であった福井因幡守貞政が余部城主となったが、天正5年明智光秀が福井因幡守貞政に降伏を勧告。しかし福井因幡守貞政はこれを拒否。使者の髻を切り腰刀を取り上げて追い返したと言います。

(当時、武士の髻を切ることは最大の侮辱行為であった)

怒った明智光秀は余部城に攻撃を開始。天正6年城中の家臣、福井与一・福井喜之助以下五十余人が本丸の門外で討ち死にし、城主の福井因幡守貞政も本丸の持仏堂で一族郎党三百余人とともに枕を並べて自害し余部城は落城したと伝えます。

しかし、日本城郭大系によると「亀山由来記」の中に承応3年(1654)旧余部城の天守や土蔵を取り壊したとの記述があり落城から76年余り後の江戸時代初期になっても未だに余部城の天守やその他の建物が残されていたようです。

余部城跡旧本丸の敷地の一角にある地蔵尊。「古城地蔵尊」の名前がついてます。

その脇にある集められて祀られている室町期頃の小石仏や一石五輪塔

特に一石五輪塔は室町末期頃の物で全く確証はありませんが、古城地蔵尊は城主・ 福井因幡守貞政が自害した持仏堂の名残、脇の石仏や一石五輪塔は福井因幡守貞政やともに自害した一族、討ち死にした福井与一や福井喜之助など家臣たちの墓石か供養のために立てられていたもの?と想像を掻き立てます。

余部城跡は宅地化により全く遺構は残されておらず城域一帯が周りの地形より高くなっているのを確認できる程度ですが今でも残る古城・政所等の地名や関係は不明ながらも旧本丸に残された古城地蔵尊と室町末期頃の石造物がかつての余部城跡の名残を今に伝えています。