公開講座「恋する顔」1

 

※昨日5月17日は、北大文学研究科が一般社会に向けて企画する公開講座の第一回で、ぼくが担当した。今年の総合テーマは「恋する人間」で、ぼくの論題は「恋する顔」。トッド・ヘインズの傑作『キャロル』をもとに話した。北大卒業生から仕事で行けないが、内容を知りたいというリクエストがあり、きのう受講者に配布したプリントに少し加筆したものを以下にアップする。このFB/ブログへのアップは短期間で終わらすかもしれないが。

 

公開講座「恋する人間」?「恋する顔」

 

【1.辞書より】

○恋【こい】人を好きになって、会いたい、いつまでもそばにいたいと思う、満たされない気持ち(を持つこと)(三省堂国語辞典

○恋【こい】特定の異性に深い愛情をいだき、その存在が身近に感じられるときは他のすべてを犠牲にしても惜しくないほどの満足感・充足感に酔って心が高揚する一方、破局を恐れての不安と焦燥に駆られる心的状態(新明解国語辞典

○恋【こい】特定の異性(まれに同性)を強く慕うこと。切なくなるほど好きになること。また、その気持ち。(明鏡国語辞典

※相手への距離が横たわっている段階では自己被所有・対象所有にかかわる希望と不安が物憂く交錯するが、じつは相手との距離が無化された段階でもそれは変らない(「愛」とちがう)。つまりその恋が真正であれば、そこから脱出できない閉塞だけを結果する。

 

【2.映画『キャロル』概要】

キャロル・エアード……ケイト・ブランシェット(『アビエイター』『バベル』)

テレーズ・ベリベット……ルーニー・マーラ(『ドラゴン・タトゥーの女』)

アビー……サラ・ポールソン

ハージ……カイル・チャンドラー

リチャード……ジェイク・レイシー

監督……トッド・ヘインズ(『ポイズン』『ベルべット・ゴールドマイン』)

原作……パトリシア・ハイスミス(『見知らぬ乗客』『太陽がいっぱい』『アメリカの友人』)

※ただし名義は変名「クレア・モーガン」、原題は“The Prince Of Salt”

脚本……フィリス・ナジー

撮影……エド・ラックマン(『ヴァージン・スーサイズ』『今宵、フィッツジェラルド劇場で』)

衣裳……サンディ・パウエル(『キング・オブ・ニューヨーク』『アビエイター』)

音楽……カーター・バーウェルコーエン兄弟作品)

美術……ジュディ・ベッカー

原題“Carol”、2015年、アメリカ、118分、

第68回カンヌ国際映画祭主演女優賞(ルーニー・マーラ

 

【3.作品背景、作品構造】

・女性同士の「恋愛映画」(※好奇的なレスビアン映画ではない)。

・当事者たちのある時点から語りが開始、当事者たちの出会いへと戻り、時間が進展して冒頭時点にふたたび到達すると、「その後」がエピローグとして付加される(クエンティン・タランティーノパルプ・フィクション』などと同型の時間構造)。

・主舞台は冬から春先のニューヨークだが、途中、テレーズとキャロルがフロンティア時代どうよう「西進」してゆく。ただしこの動きは挫折する。

・1950年代の時代符牒は作中のことば「アイゼンハワー大統領」「非米活動委員会」によって示されている。キャロルのコート等が絢爛に変わるように第二次世界大戦戦勝国の豪奢な生活が支配している(ただしいつもおなじ帽子をかぶっているアパート暮らしのキャロルは下層に属する=その意味で、キャロルのテレーズへのアプローチは「下犯」といえる)。とうぜんこの時代、同性愛は一般的にはつよいタブーで、レスビアンが精神病者とみなされていた点は、キャロルの親権闘争の経緯でわかる。

 

【4.指摘1:フィルのパーティへ行く車中のテレーズ=ルーニー・マーラの「顔」まで】

・キャロル=ケイト・ブランシェットがテレーズの肩に手を置くときのテレーズの憂いの顔が観客にとっての「謎」となる。友だちが肩に手を置くときとは好対照だから[その瞬間は「後ろ姿」で、顔が明示されない]。

・車中のテレーズの顔はクルマのガラスを経由しているため、間接化・幽閉化・朦朧化・反映化されている。放心と、それを覆そうとする「物思い」とで、顎先の「方向」が変化し、しかも光の反映により、瞳の湿潤度がうつくしく強調される。ここにすでに「恋の気配」がある。

・一瞬、突然の挿入といった気色で、キャロルとの最初の出会いが交錯する。このことで「顔の現在が、過去を不測に内包してしまう」不如意がしめされる。

 

【5.指摘2:クリスマス商戦、デパート「フランケンバーグ」玩具売場におけるテレーズ、キャロルの初めての邂逅】

・逆構図の反復で、見つめ合ってしまい、視線を逸らせることのできない運命性が描写される。

・「無防備に」視てしまうことがテレーズにかんじられる。その少女=乳児性【引例1】。視ることに内在する反射性。けれどもあとづけでいえば、この反射性は期待可能性でもあり、そこに自己の被所有にまつわる淫猥さを感知することもできる(性的に晩生なのに淫猥さを分泌するマーニー・ルーラの内包的演技力は奇蹟の域に達している)【引例2】。テレーズの表情は最初の瞬間、凝固し、「一方向」へと釘づけになる。

・とはいえ、演技を離れ、ルーニー・マーラの目許を虚心坦懐にとらえると、じゃっかん寄り目で、このことが不順・女性病・視野狭窄など狂気につながる薄倖な異常をも予感させる。

・いっぽうテレーズへのキャロルの眼差しは質をたがえている。「淫蕩」をゆらめかせながらも、同時にテレーズの「階級」を対象化する冷静さをも保持している【引例3】。

 

【6.引例1】

母親の表情を模倣する乳児が〈顔〉の映し出す鏡であるように、母親の〈顔〉もまた、乳児の〈顔〉を映し出す鏡なのだ。向かい合う乳児の〈顔〉と母親の〈顔〉は、合わせ鏡のように互いが互いを映し出し、見るものと見られるもの、主体と客体が区別されはしない。融合的とは、この合わせ鏡のことなのだ。その意味で、〈顔〉的知覚とは、触れるものがそのままで触れられるものである触覚的なものである。別言すれば、視覚において触覚性を再現するのが〈顔〉的知覚なのだ。

――西兼志『〈顔〉のメディア論』(法政大学出版局、2016年、19頁)

 

【7.引例2】

視線にはみつめるものからみつめ返されるという期待が内在する。(狭義の視線においてと同様に、思考においても注意力の意欲的な視線に纏わる)この期待が実現されるとき、アウラの経験はその充実において視線にあたえられることになる。

――ヴァルター・ベンヤミンボードレールのいくつかのモティーフについて」『ベンヤミン著作集6 ボードレール』(円子修平訳、晶文社、1975年、208頁)

 

【8.引例3】

人間のまなざしに貫かれ、道具化されてしまった対象たちの世界。その頂点に立つのは、当然、まなざしの主体である人間ということになる。では、そのまなざしが人間自身を見つめた場合、何が起こるのか。まず、そこでは階級の分化が起こる。農民階級の人間は、静物画における事物と同様、対象としての地位が与えられ、人間以前の未完成の生き物として表象されるのである。彼らは顔も定かではなく、年齢も性別も不明で、ただ数として存在する権利しか与えられていない。その理由は、もうひとつの階級である貴族だけを人間とみなすためである。

――桑田光平『ロラン・バルト 偶発事へのまなざし』(水声社、2011年、61頁)

 

【9.恋する顔について1】

・少女マンガでは70年代の大島弓子作品を好例に、「恋する顔」は頬の斜線でしるされる上気、瞳の潤み、さらには唇の半開といった、「表情の病態」で綴られた(むろんそれは性的法悦を予感させる)。ただしマンガ特有の表現の静止性による産物。

映画女優にあっては「恋する顔」の観客・共演者への伝達は、頬の上気、瞳の潤みをふくみながら、むしろ顔の諸部位の連関の「わずかな異常性」のほうにつよく刻印される。徴候的。ルーニー・マーラは「眼千両」といえるほど眼の表情が多弁だが【引例4】、相手を視て唇を閉ざすか(切迫)、相手を視て微笑むか(解放)で偏差をつくりあげる。顎の向きは、相手に向けば期待、相手から逆になれば放心・物思いをしるし、いずれにせよ、恋情と眼差しがつながってそのすべてが恋愛モードを形成する。同時に、眼差しそれ自体は、それをもつ者が人間である以上、聡明さにもつながる【引例5】。

・日本人好みのやや不定形性を帯びた少女的なおかっぱ髪(前髪プッツンと現在よばれるもの)によってあらわになった表情の「転写幕」の存在がおおきい。それは「その刻々」を視るのに値する【引例6】。

・テレーズ=ルーニー・マーラの息苦しいほどの「一途」は、作品の途中までは出会いの瞬間の激しい「固着」からの自己展開として生起する。それがやがてキャロルの離婚と親権問題を案ずる同志的な頼もしさへと上昇、さらにはキャロルとの仲の破綻にともなって相互性そのものを拒絶する硬い意志の顔へと変化を遂げる。つまりテレーズの顔の「時間性」はこの映画では後天的に変化をつづける【これも引例6】。

 

【10.引例4】

個別における最小の変化によって全体表現の最大の変化を生じせしめるという課題を、顔はたしかにもっとも完全に解決している。それぞれの特徴の規定性が他のすべての特徴の規定性と、かくして全体のそれと連帯している顔こそ、物体の形式諸要素を相互的に理解にもたらし、直観的なものを直観的なものとの関連によって解釈するという、すべての芸術の問題にとって、これほどふさわしく予定されているものはない。顔のおどろくべき運動性もかかる連帯の原因であり結果であって、この運動性は絶対的に観れば、きわめてわずかな形状の変動を支配するにすぎない〔…〕。/最小の自己運動に最大の運動感が生じることの頂点をかたちづくるのは目である。

――ゲオルク・ジンメル「顔の美的意義」『ジンメル著作集12』(杉野正訳、白水社、1976年、185―186頁)

 

【11.引例5】

もっとも叡智的な眼は、おそらく、遠くを見ていながらしかも近くを見落としていない眼、すべてを見ていながらしかもどこを見ているのかわからないような眼であろう。主観客観の相即を説くことはやさしい。困難なのは主観と客観とのまさしく中間に眼を保持すること、この両者の間に眼を独立に維持し、維持することによって両者を結びつけていること、眼によって物をも心をも支配しながら、しかもそのいずれにも捉われないことである。人間の真の叡智がそこにある。このときもはや眼が見るのではなく、物がその真の姿を見せるのである。

――矢内原伊作矢内原伊作の本1 顔について』(みすず書房、1986年、43頁)

 

【12.引例6】

表情は、純粋な可視的象としてより、むしろ時間表象として現れる。表情はたえず移ろい、揺れ動いているもの、またわたしがその前にいれば、わたしのそれとシンクロナイズするかたちで噛みあったり反撥しあったりするものである。そしてその変化や変換の速度が見るわたしのそれと異様に違うとき、あるいはゼロのとき、われわれはそのひとの存在を「ふつうでない」と感じる。〈顔〉という現象は何よりもまず時間的な出来事ではないのか?

――鷲田清一『顔の現象学』(講談社学術文庫、1998年、20頁)

 

【13.恋する顔について2】

・同性愛者が対象から見事に「潜勢」を嗅ぎだすのは知られているだろうが(これは、実際は危険回避とも結合している)、ケイト・ブランシェットはその過敏性を着実に伝達する。

・売り子のテレーズにたいし、「4歳のころ親しんだおもちゃは?」と唐突に訊ねる客ケイトに注目しておこう。「人形が家になかった」という逸話はテレーズの育ちの貧困をしめし、けれども男児のこのむ「列車セット」には親しんだという逸話は、テレーズの「性」に変貌可能性が仕組まれていることを語る。これらがテレーズの視線の質とともに、キャロルの「判別」材料となったのではないか。

ルーニー・マーラの顔の「情緒性」にたいし、ケイト・ブランシェットの顔は冷厳なほどに物質的とかんじられるが、それは映画の当初、主観の位置に置かれるルーニーにたいしケイトが他者の位置に置かれるためでもある【引例7】。

・ケイトの「恋する顔」で注目すべきなのは、約分できない諸感情・諸性質が同時性のなかに混在している点だろう【引例8】。そこでは、威厳・優雅・颯爽・絶望・悲哀・疲弊・不足・欲望・淫猥・かすかな老化が同時にひしめいて、そのそれぞれを分離できない。この分離不能性が物質感だともいえる。このことをさらけだすケイト・ブランシェットの演技力も瞠目に値する。とりわけすばらしいのは、眼差しを対象へともちあげたときのケイトの瞳が「泣いてみえる」ことではないか(ケイトの顔は動物類型でいえば、山羊と狐の混淆――ルーニーの顔が鹿類型なのにたいして)。

 

【14.引例7】

顔はその性質によってあらわれるのではなく、それ自体としてあらわれる。顔はみずからを表出するのだ。

――エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』上(熊野純彦訳、岩波文庫、2005年、80頁)

 

顔とは生きた現前であり、表出である。表出のいのちは、かたちを解体するところに語る。かたちのなかでのみ存在者は主題として暴露され、まさにそのことでそれ自体は隠されるからだ。だが顔はことばを語る。顔が現出することはすでにして語りである。

――同上(116頁)

 

顔は、内容となることを拒絶することでなお現前している。その意味で顔は、理解されえない、言い換えれば包括されることが不可能なものである。顔が見られることも触れられることもないのは、視線あるいは触覚にあっては〈私〉の同一性が対象の他性を包含し、対象はまさしく内容となってしまうからである。

――エマニュエル・レヴィナス『全体性と無限』下(熊野純彦訳、岩波文庫、2006年、29頁)

 

【15.引例8】

顔はなによりまず、形而のパトスであり、言語活動のパトスである。自然が顔を獲得するのは、自然が、言語活動によって啓示されていると自ずと感じるときである。言葉によって露出されあばかれているということ、秘密をもつことの不可能性のなかに自らを覆うということが、顔の中に、貞節としてあるいは動揺として、無礼さとしてあるいは慎みとして、ちらりと姿を現す。

――ジョルジョ・アガンベン「顔」『人権の彼方に』(高桑和巳訳、以文社、2002年、96頁)