現存する幕末史跡その1壬生寺と大阪天満宮

祇園祭天神祭

上方の夏祭といえば、京の祇園祭と大阪の天神祭です。今年もたくさんの人で大賑わいの中、無事に済みました。日本の3大祭のうちの2つですが、なぜ、夏祭かというと、京都と大阪はずっと1000年前から町だったからで、村は秋の収穫祭です。筆者の住む町の神社も秋祭です。たとえば、有名な岸和田のだんじり祭は秋です。

さて、新選組はこの祇園祭天神祭と切っても切れない縁がありますねぇ。祇園祭が毎年、始まるころには池田屋事件を思い出しますし、今年も壬生寺新選組隊士の供養祭が営まれました。壬生寺の本堂は建て替えられて新しいですが、常夜灯などは江戸期からのものです。山門はどうなのかなぁ。古そうです。

幕末、治安の悪化で大坂の夏祭は中止ということになりました。慶応元年1865、新選組が警備をしてやるから、夏祭を実施しないかという書状を近藤勇が大坂天満宮に送ります。長州征討のために新選組が下寺町のお寺、萬福寺大宝寺に逗留していたころのことです。さぁ、言われた天満宮は慌てふためきますが、協議の結果、すでに中止を決めたことだからと新選組に断りに行こうということになりました。戦恐と下寺町の新選組旅宿を訪れた使者の方に、応対に出てきた新選組隊士は、案外、やさしく処遇してくれたと、大坂天満宮宮司だった滋岡家文書に書き残されているとか。この隊士、どうも鈴木樹三郎だったようです。

慶応3年12月14日、大政奉還の後、徳川慶喜が大坂へ引き上げたこともあり、新選組も大坂にやってきます。14日15日の宿舎は大坂天満宮でした。2泊したのち、16日には戦いの最前線になるであろう伏見の奉行所に移っていきます。

この天満宮、天保8年1837の大塩平八郎の乱で炎上しました。しかし、そこは大坂の大神社のこと、すぐに再建されました。幕末には、新しい本殿が建っていたはずです。それから奇跡的に空襲にあわずに済みました。おかげで、本殿や山門が無傷のままで現存しています。新選組が泊まったのは、この敷地のいずこ??

もう一つ、今年は天神祭でおもしろい話題がありました。江戸時代には、天満宮のすぐ近くに川崎東照宮という、1617年に徳川家康を祭った神社がありました。家康の孫、松平忠明による創建です。幕末、14代将軍家茂が来坂していた折には、参ったという話もあります。

しかし、明治になって廃社となり、現在は小学校になっています。本殿は豊中市の神社に移転したそうですが、倉庫と神輿が大阪天満宮で保管されています。今年は、その神輿が家康没後400年を機に、展示されていました。大阪では珍しく、葵の紋章付きの神輿です。

壬生寺の常夜灯です。こちらは間違いなく、江戸時代の建立です。

山門は古そうなので、江戸時代のものでしょう。

供養祭が壬生寺であるのは、大正時代に建てられた、近藤勇の遺髪塚があるからだとか。石碑の文字はもはや、読めませんが。近藤所有の刀剣に付いていた覚書から、近藤の首級は会津に運ばれたのではという話が話題になっていますね。

こちらは現代風ですね。

誠の旗が青空に翻っていました。

この写真は木屋町四条にあるソワレという喫茶店です。古高俊太郎の旧宅跡にあります。

窓の外には今も昔も高瀬川が流れています。

内装はレトロでいい雰囲気ですよ。築63年だそうで、戦後すぐの建物です。

メロンアイスが美味でした。

玄関向かって左下には吉井勇の歌碑があります。彼は薩摩藩の吉井幸輔の孫です。

大阪天満宮の門です。新選組隊士たちは、この下をくぐったことでしょう。

本殿です。幕末にはありました。

参集殿という大広間ですが、この建物が幕末に建っていたかは、微妙なところだそうです。もしあれば、隊士たち、寒い時期ですので、この中だったでしょうが、なければ、野営ですかねぇ。

天神さんなので、観梅も有名です。

常夜灯の文字は、頼山陽が書いた文字だとか。

元治元年です。

1000年前に天満宮となったわけですが、もともとは大将軍社という難波宮が建造された折の地主神社だったそうです645年。古くは天満天神の森と称され、楠正成や大坂本願寺攻めの折、織田信長の本陣が置かれた場所です。

この石碑は本殿に向かって左奥の大将軍社に置かれています。この写真は観梅の折、拓本が展示してあり、おかげで文字が読みやすかったです。